建物賃貸借関連A
―賃借人の原状回復義務について―



弁護士 井 尻 潔

1. 賃借人の原状回復義務

 賃借人は契約終了により、賃借家屋を賃貸人に返還する場合、賃借物に附属させた物を収去し、原状に修復して返さなければならないとされています(民法598条、616条)
  例えば、賃借人が賃借家屋に取り付けたクーラーや家具等は取り除いて返還することになります。また、賃借人には賃借物に対し、善管注意義務を負っていますので、賃借人の使い方が悪く、そのため賃借家屋の床・壁などを汚したり、痛めた場合には、返還時には賃借人が修繕費を負担する必要があります。
 これに対し、賃借人が善管注意義務に反することなく通常の使用法で賃借家屋を使用し、その結果長年使用したことによる変色や痛み等を「通常損耗」と呼び、この「通常損耗」の費用負担について以下解説します。


2. 通常損耗と賃借人の原状回復義務

(1)

 「通常損耗」の第一の負担者は、賃貸人であるとされております。それは、民法606条1項で「賃貸人は賃貸物の使用及び収益に必要な修繕をする義務を負う」とされており、それに対し、賃借人は賃料支払い義務を負っておりますので、これらの民法の条文の解釈により「通常損耗」については、契約に特に定めがない限り、その原状回復義務は賃貸人が負うこととされています。
 ところが、特約によって「通常損耗」についても賃借人の負担とすることがなされた場合、その特約が有効であるのか無効であるのかが問題となっています。


(2)

この問題については、最高裁判所が平成17年12月16日に判決を出しております。この事案は、地方の住宅公社が賃貸契約の際に契約書の別紙に「修繕費負担区分表」が付いていたが、その説明はなかった。「修繕費負担区分表」によると、「襖紙・障子紙」については「汚損(手垢の汚れ、タバコの焼けなど生活することによる変色を含む)・汚れ」、「各種床仕上材」の項目では「生活することによる変色・汚損。破損と認められるもの」などと、日常生活によって生じた汚損である「通常損耗」を賃借人に負担させる契約となっていた。賃借人は退去の際、「通常損耗」の修繕費を敷金から差し引かれたため、「通常損耗」を賃借人に負担させる特約が有効かどうか争われたのです。
そこで最高裁判所は一般論としてこのように判断しています。「…建物の賃借人にその賃貸借において生じる通常損耗についての原状回復義務を負わせるには、賃借人に予期しない特別の負担を課すことになるから、賃借人に同義務が認められるためには、少なくとも賃借人が補修費用を負担することになる通常損耗の範囲が賃貸借契約の条項自体に具体的に明記されているか、仮に賃貸借契約書では明らかでない場合には、賃貸人が口頭により説明し、賃借人がその旨を明確に認識し、それを合意の内容としたものと認められる等、その旨の特約が明確に合意されていることが必要であると解するのが相当である。」そして、当該事例に対しては、賃貸借契約書に通常損耗の補修費特約が明記された条項はなく、また入居説明会においても、通常損耗補修特約の内容を明らかにする説明は無かったとして、特約の有効性を認めず、破棄差戻しとなった。
 このように最高裁は一定の厳格な要件の下で通常損耗についての賃借人負担の特約の有効性を認めたものであります。


(3)

 オフィスビルの賃貸借の場合
 最高裁の前記判決は、住居についての賃貸借契約に対する判断でありますが、住居ではないオフィスビルの賃貸借契約においても通常損耗を賃借人の負担とする特約は最高裁の判断のように厳しくなるのでしょうか。
 これについては東京高裁が平成12年12月27日の判決で
 「一般に、オフィスビルの賃貸借においては、次の賃借人に賃貸する必要から、契約終了に際し、賃借人に賃貸物件のクロスや床板、照明器具等を取り替え、場合によっては天井を塗り替えることまでの原状回復義務を課する旨の特約が付される場合が多いことが認められる。オフィスビルの原状回復費用の額は、賃借人の建物の使用方法によっても異なり、損耗の状況によっては相当高額になることがあるが、使用方法によって異なる原状回復費用は賃借人の負担とするのが相当であることが、かかる特約がなされる理由である。もしそうしない場合には、右のような原状回復費用は自から賃料の額に反映し、賃料額の高騰につながるだけでなく、賃借人が入居している期間は専ら賃借人側の事情によって左右され、賃貸人においてこれを予測することは困難であるため、適正な原状回復費用をあらかじめ賃料に含めて徴収することは現実的には不可能であることから、原状回復費用を賃料に含めないで、賃借人が退去する際に賃借時と同等の状態にまで原状回復させる義務を負わせる旨の特約を定めることは、経済的にも合理性がある」としていますので、居住用ではなく、オフィス用物件の場合には、必ずしも通常損耗の範囲が明確に定められていなくても通常損耗部分を含めた原状回復義務を負わせることは比較的容易と考えられます。
 ただし、東京簡裁の平成17年8月26日判決では、「本件物件は、使用は居住用の小規模マンション(賃貸面積34.64平方メートル)であり、築年数も20年弱という中古物件である。また、賃料は12万8600円、敷金は25万7200円であって、事務所として利用するために本件物件に設置した物はコピー機及びパソコンであり、事務員も二人ということである。このように本件賃貸借契約はその実態において居住用の賃貸借契約と変わらず、これをオフィスビルの賃貸借契約と見ることは相当ではない。本件賃貸借契約は、その実態において居住用の賃貸借契約と変わらないのであるから、オフィスビルの賃貸借契約を前提にした前記特約をそのまま適用することは相当ではないというべきである。すなわち、本件賃貸借契約はそれを居住用マンションの賃貸借契約と捉えて、原状回復費用はいわゆるガイドラインにそって算定し、敷金はその算定された金額と相殺されるべきである」としており、小規模物件の場合は、たとえそれをオフィスとして利用していたとしても、居住用物件と同様、「賃借人が補修費用を負担することになる通常損耗の範囲」を賃借人が契約時に明確に認識していなければ、通常損耗部分について原状回復義務を負わせることはできないと考えるべきでしょう。


3. 通常損耗の賃借人負担特約と消費者契約法10条

 居住用住宅の賃貸借契約で通常損耗について賃借人に負担させることは一定の要件の下で可能であることは平成17年の最高裁が示した通りであるが、最高裁の判例は消費者契約法が適用されない契約に対する判断だったものであり、そうすると、通常損耗についての賃借人負担の特約は賃借人にとって著しく義務が強化されるものであるとして、消費者契約法10条により無効とならないかが問題となっています。
 これについては、京都地方裁判所は、平成16年3月16日の判決で、  
  「賃借人が、賃貸借契約の締結に当たって、明け渡し時に負担しなればならない自然損耗等による原状回復費用を予想することは困難であり(従って、本件のように賃料には原状回復費用は含まれないと決められていても、そうでない場合に比べて賃料がどの程度安いのか判断することは困難である)この点において、賃借人は賃貸借契約締結の意思決定にあたっての十分な情報を有していないといえる。本件のような集合住宅の賃貸借において、入居申込者は、賃貸人または管理会社の作成した賃貸借契約書の契約条項の変更を求めるような交渉力は有していないから、賃貸人の提示する契約条件をすべて承諾して契約を締結するか、あるいは契約しないかのどちらかの選択しかできないことは明らかである。
 これに対し、賃貸人は将来の自然損耗等による原状回復費用を予想することは可能であるから、これを賃料に含めて賃料額を決定し、あるいは賃貸借契約締結時に賃貸期間に応じて定額の原状回復費用を定め、その負担を契約条件とすることは可能であり、また、このような方法をとることによって、賃借人は原状回復費用の高い安いを賃貸借契約締結の判断材料とすることが出来る。
以上の点を総合考慮すれば、自然損耗等による原状回復費用を賃借に負担させることは、契約締結に当たっての情報力および交渉力に劣る賃借人の利益を一方的に害するものといえる。ゆえに本件原状回復特約は消費者契約法10条により無効であると解するのが相当である。」としている。
 そして、京都地裁の事件が控訴され、平成16年12月17日大阪高裁で京都地裁と同様に無効とする判断がなされた。大阪高裁はその理由の中で、「民法は目的物返還時に原状回復義務を負わないと規定しており、判例も同旨である。本件原状回復特約は、民法の任意規定の適用による場合に比し、賃借人の義務を加重している。さらに、本件原状回復特約は賃借人の二重負担の問題が生じ、また賃貸人が一方的に必要性を認めることが出来るなど、賃借人に一方的に不利益であり、信義則にも反する。自然損耗についての原状回復義務負担の合意は、賃借人に必要な情報が与えられず、自己に不利益であることが認識できないままされたものであって、一方的に不利益であり、信義則にも反する。また、民法の任意規定の適用による場合に比して、賃借人の義務を加重し、信義則に反して賃借人の利用を一方的に害しており、消費者契約法10条に該当し、無効である。」 と判断している。


4.まとめ

(1)

 居住用の賃貸借契約については、通常損損耗を賃借人に負担させる特約については、最高裁判所は、消費者契約法が適用されない契約については、一定の条件の下で有効と認めています。

 
(2)

 消費者契約法が適用された場合の特約の有効性についてはまだ最高裁の判断がなされてはいないが、高裁においては無効とする判断が既に出ています。

 
(3)  オフィスビルの賃貸については消費者契約法の適用はないので、従来通り、通常損耗の賃借人負担特約は、一応は有効と考えられます。但し、マンションの賃貸借のような居住用建物の賃貸の場合には、最高裁判所の基準が適用される場合もあります。



  以上

(一財)大阪府宅地建物取引主任者センターメールマガジン平成25年10月号執筆分