建物賃貸借関連B−原状回復トラブル事例−


弁護士 岩本 洋

 今回は、原状回復トラブル事例と題しまして、裁判例に現れたトラブル事例をみていきましょう。

1. 原状回復とは

 原状回復とは、「賃借人の居住、使用により発生した建物価値の減少のうち、賃借人の故意・過失、善管注意義務違反、その他通常の使用を超えるような使用による損耗・毀損を復旧すること」を意味します(国土交通省住宅局「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」、以下単に「ガイドライン」といいます)。この定義がトラブルを解決する際の基本的指針となります。

2. 原状回復をめぐる裁判事案

 原状回復をめぐる裁判事案の多くの事案は、賃貸借契約が終了し、賃借人が退去した後、賃貸人が賃借人に返還すべき敷金乃至保証金から原状回復費用を控除して返還したことから、賃借人が控除すべきではないものが控除されているとして、返還されなかった敷金や保証金の支払いを求めるというケースです。
 このようなケースでは、請求金額は低額となることが多く、請求金額が140万円以下であれば、簡易裁判所が取り扱うこととなります。但し、契約書で地方裁判所を第一審管轄裁判所とする旨定められている場合には地裁でも取り扱われます。
 また、請求金額が60万円以下であれば、少額訴訟手続を利用することもできます。

3.

原状回復をめぐる争点

 原状回復の定義が上述のとおりですから、いわゆる通常損耗の復旧は、原状回復の定義から外れる、つまり、原状回復の対象外となります。そうすると、賃借人に対し、通常損耗の復旧までも義務づけることは賃借人にいわば特別な義務を負わせることとなります。このようなことが許されるのか、というのが第1の争点です。
 この点については、ガイドライン事例24の最高裁判決(平成17年12月16日最高裁判決)が、「賃借人に通常損耗についての原状回復義務を負わせるのは、賃借人に予期しない特別の負担を課すことになるから、賃借人に同義務が認められるためには、少なくとも、賃借人が補修費用を負担することになる通常損耗の範囲が賃貸借契約の条項自体に具体的に明記されているか、仮に賃貸借契約書では明らかでない場合には、賃貸人が口頭により説明し、賃借人がその旨を明確に認識し、それを合意の内容としたものと認められるなど、その旨の特約(通常損耗特約)が明確に合意されていることが必要である。」と判示しました。この判例に従えば、どのような箇所、場合に補修する必要があるか、だけではなく、通常損耗ではあるけれども補修の義務があることを認識してもらう必要があります。
 消費者契約法施行前の判例ですが、合意そのものが成立していないとしている点に特徴があります。そうすると、消費者契約法は成立した合意の効力に関する法律ですから、そもそも合意が成立したか否かの基準を示したこの最高裁判例は、消費者契約法施行後も存在意義があるということになります。

4. 通常損耗についても賃借人が復旧工事を行う旨の合意が成立したか否か

 次に、上記原則を前提として、特別に通常損耗について原状回復をする旨の合意が成立したといえるかが争点となります。


@、 ガイドライン事例30の判決(東京地方裁判所平成21年1月16日判決〔敷金43万6000円返還43万6000円〕)は、賃借人の原状回復として入居期間の長短を問わず、本件居室の障子・襖・網戸の各張替え、畳表替え及びルームクリーニングを賃借人の費用負担で実施すること(第19条5号)、退去時の通常損耗及び経年劣化による壁、天井、カーペットの費用負担及び日焼けによる変化は負担割合表によることとし、障子・襖・網戸・畳等は消耗品であるため居住年数にかかわらず張替え費用は全額賃借人の負担となること(第25条2項、負担割合表)という規定について、原状回復についての本件賃貸借契約19条5号は、本件居宅に変更等を施さずに使用した場合に生じる通常損耗及び経年変化分についてまで、賃借人に原状回復義務を求め特約を定めたものと認めることはできない。また、修繕についての本件賃貸借契約25条2項・借主負担修繕一覧表等によっても、賃借人において日常生活で生じた汚損及び破損や経年変化についての修繕費を負担することを契約条項によって具体的に認識することは困難である。さらに、原状回復に関する単価表もなく、畳等に係る費用負担を賃借人が明確に認識し、これを合意の内容としたことまでを認定することはできない、などとして、通常損耗補修特約が合意されていないとしました。さらには、仮に通常損耗補修特約がなされていたとしても、消費者契約法10条に該当して無効としました。

A、 ガイドライン事例33の判決(東京地方裁判所平成21年5月21日判決〔敷金27万円返還12万6570円〕)は、木造モルタル2階建て一戸建住宅の賃貸借契約の更新の際になされた明け渡しをするときは、専門業者のハウスクリーニング代を負担するとの特約について、ハウスクリーニング費用を賃借人の負担とする本件特約は、本件賃貸借契約の更新の際に作成された契約書に明記されており、その内容も、賃借人が建物を明け渡すときは、専門業者のハウスクリーニング代を負担する旨が一義的に明らかといえる。したがって、ハウスクリーニング代(6万3000円)は、賃借人が負担すべきである、としました。

5. 問題となる損耗が通常損耗を超える特別損耗といえるか否か

 続いて、原状回復を求められる範囲が特別損耗に限定されるとして、問題となっている損耗が通常損耗を超える特別損耗であるか否かが争点となります。

@、 上記ガイドライン事例33の判決は、和室壁面のタバコのヤニによる汚損でクリーニング等によっても除去できない程度に至っている和室壁面、大きく破れている箇所が認められる和室の障子、トイレの扉やや下方の汚れ及び、和室の畳の内2枚の黄ばみと黒いシミと茶色のシミを、通常損耗を超えたものと認めました。

A、 ガイドライン事例37の判決(東京地方裁判所平成21年11月13日判決〔敷金66万4000円返還64万7701円〕)は、LDのカーペットクリーニング、居室全体のハウスクリーニングについて通常損耗を超えるものであることを否定し、剥がれのあるクロスの張り替え、破れのある障子、網戸の張り替え、LDの照明引掛シーリング取付(紛失により、配線がむき出し)について、通常損耗を超えるものとして賃借人の費用負担を認めました。

B、 ガイドライン事例39の判決(東京地方裁判所平成22年2月2日判決〔敷金(保証金)31万4400円返還0円〕)は、フローリング材剥がれ、襖の破損、剥がれ、穴、シミ、クーラーキャップの紛失、シール剥がし跡、室内各所に取り付けられたままのフック等について通常の使用によって生じた損耗とは言えないとして、保証金からの充当を認めました。

C、 ガイドラインにおける通常損耗、特別損耗の区分に従った判断がなされていると言えるでしょう。

6. 特別損耗についての賃借人の負担の範囲

 また、特別損耗に該当し、原状回復義務を負うとしても具体的にどの程度の負担をしなければならないのかが争点となります。

@、 ガイドライン事例17の判決(東京簡易裁判所平成14年7月9日判決〔敷金14万2000円返還9万3294円〕)は、賃借人の過失により生じた壁ボード穴に起因する周辺の壁クロスの損傷については、少なくとも最小単位の張替えは必要であり、これも賃借人が負担すべきであるとしました。そのうえで、壁クロスは入居の直前に張替えられ、退去時には2年余り経過していたから残存価値は約60%であるとして、残存価値相当分についてのみ原状回復費用の負担を命じました。他にも、台所換気扇の焼け焦げ等が賃借人の不相当な使用による劣化と認めましたが、換気扇が設置後約12年経過していることから、その残存価値は新規交換価格の10%と評価されるとして、取替え費用の10%相当額のみの負担を命じました。

A、 ガイドライン事例31の判決(神戸地方裁判所尼崎支部平成21年1月21日判決〔敷金31万1000円返還請求28万3368円のうち、25万3298円〕)は、賃借人が賃貸借契約終了時に賃借物件に生じた特別損耗を除去するための補修を行った結果、補修方法が同一であるため通常損耗をも回復することとなる場合、当該補修は、本来賃貸人において負担すべき通常損耗に対する補修をも含むこととなるから、賃借人は、特別損耗に対する補修金額として、補修金額全体から当該補修によって回復した通常損耗による減価分を控除した残額のみ負担すると解すべきである、と判示しました。なお、特別損耗とされた床の削れの補修方法がタッチアップによる方法が相当であるとしたうえで、この補修方法では、賃借人による毀損部分(特別損耗)のみの補修となるため、賃借人がその全額を負担すべきである、とも判示しました。一貫した論旨です。ガイドライン事例34の判決は、同事件の高裁判決であり、この判決を支持しています。

B、 以上のとおり、特別損耗のある箇所についての補修費用だからといって全額を賃借人に負担させることはできません。

7. その他の争点

@、 中古住宅等の賃貸借契約であれば、賃貸借契約開始時点の状況からして争いになることもあります。契約開始時の現状を記録に残しておく必要があります。

A、 ガイドライン事例32の判決(東京簡易裁判所判決平成21年5月8日〔敷金12万円返還6万円〕)は、庭付き一戸建て住宅につき、草取り及び松枯れについての善管注意義務違反があったとして、賃借人の費用負担を認めていますので賃借人は庭の管理にも注意を払う必要があります。

8.  以上の判例をふまえると、ガイドラインの内容に沿った契約内容とすること、入居後の使用収益の方法もガイドラインに沿うことがトラブルを回避する一番の方法であると思いますので、是非御一読ください。


  【参考】国土交通省住宅局住宅総合整備課のホームページ

「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」について
  http://www.mlit.go.jp/jutakukentiku/house/jutakukentiku_house_tk3_000020.html


(一財)大阪府宅地建物取引主任者センターメールマガジン平成26年3月号執筆分