敷金から原状回復工事費用額を控除する旨を合意したが、原状回復工事が
未実施であった場合に当該合意が動機の錯誤により無効とされた事例


弁護士 橋田 浩


1 はじめに

   今回ご紹介する裁判例は、店舗の賃貸借契約終了時に借主において原状回復工事を行う代わりに敷金から原状回復工事費用額等を控除する旨の精算合意がされたが、実際には、貸主が原状回復工事を行わなかったことから、借主が不当利得として控除額の返還を求めたのに対し、裁判所が、上記精算合意にあたっては、貸主において実際に原状回復工事が行われるからその費用額を負担するという借主側の動機が黙示に表示され、これが意思表示の内容になっていたとして、精算合意の一部は動機の錯誤により無効であるとして、借主の不当利得に基づく返還請求の一部を認容した事例です(東京地判令和4年3月15日)。

2 事案の概要

(1)  Xは、飲食店の営業をすることを目的に、Yとの間で、平成29年2月27日、概要以下の内容で定期建物賃貸借契約を締結した。
@ 期間  平成29年4月1日から令和2年3月31日まで
      ただし、貸主及び借主は協議の上、期間満了の翌日を
      始期とする再契約を締結することができる。
A 賃料  月額18万7000円(消費税別)
B 共益費 月額3万3000円(消費税別)
C 敷金  112万2000円、敷引 20万1960円
D 原状回復に関する取決め
 ・本契約が終了したときは、借主は貸主に対し、本契約が終了する
  までに借主が本建物及び敷地に設置した造作等を撤去し、本建物を
  原状に回復の上、明渡す。
 ・前項規定の回復すべき「原状」とは、原状確認書の仕様どおり
  とし、本建物の破損、汚損箇所は借主の費用負担により補修する
  ものとする。
 ・原状回復工事については、貸主の指定した業者に依頼するものと
  する。なお、同工事に要する費用は借主の負担とする。
  (上記以外略)
 ・原状確認書添付の原状回復工事基準には、内装設備につきスケル
  トンに戻す旨が記載されていた。

(2)  XはYに対し、令和元年12月31日を解約及び退去日として、同年6月18日、本件賃貸借契約の解約を申入れた。
 後に当時者双方が検討の上、同年10月31日が解約及び退去日とされ、Xは同日までに退去した。

(3)  YはXに対し、同年10月23日、調整値引後の原状回復費を134万4926円とし、これに水道代1万8085円、電気代5万7029円を加えたものに、敷引き後の敷金92万0040円を充当したうえで不足額として50万円を請求した。

(4)  この請求を受け、Xは原状回復費の負担を了解し、Yに対し、上記50万円を支払った。

(5)  Yは、同年10月30日、新たな賃借人との間で期間を同年11月1日から2年間とする定期建物賃貸借契約を締結し、本件賃貸借契約の終了に伴う原状回復工事を実施せず、内装、造作等が残存したいわゆる居抜きの状態で引渡した。
(6)  そこで、Xは、原状回復工事が実施されないのであれば、原状回復費を負担する旨の合意をすることはなく、合意は無効であるとして、不当利得の返還を求めた。

3 争点

 Xが原状回復費用として負担することとされた134万4926円がYの不当利得となるか。具体的にはXが上記金額を負担する旨の合意が動機の錯誤等により無効となるか。

4 裁判所の判断

(1)ア  本件賃貸借契約の定める原状回復義務の内容は、契約条項及び原状確認書の添付書類の文言に基づけば、スケルトンの状態にするというものであったこととなる。
 他方で、本件賃貸借契約については、開始当初において上記文言に反して居抜きの状態で引渡しがされており、また事後的ではあるものの、同契約終了後の後行賃貸借契約においても、居抜きの状態で引渡しがされた。このような経過に照らせば、契約当事者間において、賃借人であるXがいかなる場合でもスケルトン工事の負担を負う旨の認識が共有されていたとは直ちに解し難く、少なくともXにつき、居抜きに応じる入居希望者が現れた場合には自身の負担を軽減できる旨の期待を有していたとしても不合理とは言えない。
 併せて、本件賃貸借契約の条項を見ると、原状回復義務に関する取決めとして、借主が設置した設備等を撤去して建物を原状に回復する旨や破損、汚損箇所についても補修する旨のほか、原状回復工事については貸主の指定する業者に依頼し、その費用は借主が負担する旨などが定められている。これらの内容から、原状回復義務については実際に原状回復工事が実施されることが当然の前提とされていると解され、工事の実施の有無にかかわらず借主が金銭負担をすることを前提とするような内容はうかがわれない。

 Xが解約を申し入れた後の交渉経過を見ると、Xとしては、自身の原状回復義務の負担を軽減できるかどうかにつき関心を持ち、居抜きでの引越に応じる入店希望者を探すなどしており、Yもそれを認識していたが、結局は原状回復工事が実施されるとの前提で交渉が進行した。

 Yが令和元年10月9日に原状回復工事代金の見積書を示し、その後同月16日には当事者間で鍵の返還及び退去時請求書の交付が行われるに至った。
 上記請求書の文言上は、「原状回復費」などとの項目及び計算結果としての請求額を示すものであって、原状回復工事を実施するか否かにかかわらず金銭精算を要するような内容は何ら見当たらない。また、X代表者は、工事代金額が高額すぎるとの認識の下、Yの担当者に対して減額を求める旨を述べ、また各書面にあえて「受領しました」との手書きを加えており(内容に同意したのではないとの趣旨が理解できる。)、金銭精算につき異議なく承諾をしたような形跡は何ら見当たらない。
 以上より、Xとしては、原状回復工事が実施されることを前提に、なお自身の負担を軽減できるか否かにつき関心を持っており、かつYもその旨を認識していたことが明らかと言うべきである。

 その後の同月20日頃、X代表者とY代表者との間で電話連絡が行われ、同月23日には本件請求書(最終の請求書)が作成された。
 かかる経過を見ると、Xはなお自身の負担を軽減できないかを検討し、まず工事代金が適正なものであるか否かにつき問合せを行った上、最終的には支払額を50万円とする旨の交渉を行っている。そして、作成された本件請求書の文言を見ると、「調整値引」との表現により減額が行われているが、この表現自体が原状回復工事の有無にかかわらずXが金銭負担をする旨の内容を直接示すものとは解し難い。また、他の記載内容は前記の退去時請求書と同様であって、工事の有無にかかわらず金銭精算を要するような内容は何ら見当たらないし、他に原状回復工事が実際に実施されるか否かについて明示的なやり取りは見当たらない。
 Xとしては、調整値引が行われた後においてもなお、原状回復工事が実施されることを前提として自身の負担につき関心を持っており、かつ、Yはその旨を認識していたと認められる。

 以上に照らせば、本件請求書の作成により本件合意をするに当たって、X代表者は、実際に原状回復工事が実施されるからこそ、その費用を負担する旨の動機を黙示に表示しており、その動機が意思表示の内容となっていたと言うべきである。
 また、仮に原状回復工事が実施されない場合、X代表者が本件合意に当たる意思表示をしなかったこと及びそれが社会通念上相当であることは明らかと言うべきである。
 よって、原告の動機の錯誤が成立する。

(2)  これに対し、Yは動機の黙示の表示及び動機が要素に当たることを否認し、さらに令和元年10月16日に退去時請求書を交付した際に、原状回復工事を免除する代わりに金銭精算をするとの合意をしたもので法律上の原因がある等を主張するが、前記認定を左右するに足りる事実、証拠は見当たらない。

(3)  以上から、本件合意は、Xの動機の錯誤により無効である(ただし、無効とされるべきであるのは、正確には同合意のうち原状回復費に当たる一部であり、このような一部無効とされること自体については当事者間にも特段争いがないものと解される。)。
 よって、上記の原状回復費に当たる部分につき、Yの不当利得が成立する。

5 解説

(1)  錯誤
 表示から推断される意思(表示上の効果意思)と真意(内心的効果意思)とが一致しない意思表示については、表意者保護の要請から無効とされていました(改正前民法95条)。
 具体例としては、精算合意において精算金を5000円と書くべきところを誤って5000万円と書いてしまった場合などがあげられます。

(2)  動機の錯誤
 本件における精算合意は、Xが原状回復工事を行う代わりに敷金から原状回復工事費用を控除するという合意であり、表示上の効果意思と真意の間に齟齬はありません。齟齬があるのは、XはYによって原状回復工事が実施されるということを前提として、自ら原状回復工事を行う代わりに敷金から控除する形で原状回復工事費用を負担する旨の精算合意をしたにもかかわらず、現実にはXが前提としていたYによる原状回復工事が実施されなかった点、すなわちXが精算合意をした動機(前提)の部分です。
 このような場合であっても表意者を保護するのが妥当な場合もあることから、動機が表示され、意思表示の相手方が表意者の動機を知っており、その動機が意思表示の内容となっているときは意思表示を無効とすると解釈されています。これが動機の錯誤です。
 動機の錯誤が認められれば、その意思表示は無効となり、法律効果は発生しません。
 今回ご紹介した裁判例は、XYにおける精算合意はXがYにおいて原状回復工事が実施されることを動機としており、この動機は黙示的に表示され、Yも知っており、意思表示の内容となっていたと認定し、原状回復工事費用を敷金から控除する部分について錯誤による無効を認め、Yに不当利得の返還を命じたものです。

6 無効から取消へ、動機の錯誤の明文化

 今回ご紹介した裁判例は、改正前民法が適用される事案で、錯誤の効果は無効とされていますが、平成29年法律第44号により改正された民法では、錯誤の効果が従前の「無効」から「取り消すことができる」に改められました。
 また、従前は民法95条の解釈で処理されていた動機の錯誤が「基礎事情錯誤」として改正民法95条1項2号及び2項において明文化されました。
 令和2年4月1日以降の法律行為については、改正民法によって規律されていますのでご注意下さい。



以上

(一財)大阪府宅地建物取引士センターメールマガジン
令和6年3月号執筆分