『賃貸借契約における通常損耗特約について(判例解説)』


弁護士 住原 秀一

第1 はじめに

 最高裁平成17年12月16日判決(最高裁判所裁判集民事218号1239頁)は、「通常損耗が生ずることは賃貸借の締結時に当然予定されており、通常は減価償却費や修繕費等の必要経費を折り込んで賃料が定められるのであって……特約がある場合を除いて賃借人は通常損耗の回復義務を負わない」と判示しています。また、来年4月1日から施行される改正民法においても、従前の判例理論を明文化して、賃借人は原則として通常損耗の原状回復費用を負担しなくても良い旨が明記されました(改正民法621条)。
 ところで、上記最高裁判決は「特約がある場合を除いて」と述べています。それでは、通常損耗についても賃借人が原状回復費用を負担する旨の特約を設けた場合、それは常に有効となるのでしょうか。この点に関する裁判例を紹介します(東京地裁平成29年4月25日判決〔RETIO 112号124頁〕)。


第2 事案の概要

 賃貸人Xと賃借人Yは、平成15年8月22日、居住用物件(以下「本件住戸」という)について、賃料10万円・共益費4000円、敷金20万円と定め、次の特約のある賃貸借契約を締結した。「解約時の畳・襖・クロス・クッションフロア等の張り替え及び壁の塗り替え等その他補修費用は折半とする。但し、室内クリーニング・エアコンクリーニング・破損箇所は全額借主負担とする。」(以下「本件特約」という)。
 その後、XとYは、賃貸借契約を更新し、契約は平成27年9月30日まで継続した。
 平成27年9月26日、Xが委託した管理会社とYは、本件住戸の退室確認をし、Yは、不動文字で「記載された事項につき署名します」と記載の入った賃貸借物件退室確認項目と題する書面に署名した。
 その後、Xは、Yに対し、本件特約に基づき、敷金20万円では通常損耗分も含めた原状回復費用がまかなえないとして、その原状回復費用等54万5063円を請求した。


第3 判決の要旨
 裁判所は、次のように判示して、Xの請求の大半を棄却し、特別損耗分の原状回復費用のみ請求を認めた。

1 建物の賃貸借契約においては、賃借人が社会通念上通常の使用をした場合に生ずる賃借物件の劣化又は価値の減少を意味する通常損耗に係る投下資本の減価の回収は、通常、減価償却費や修繕費等の必要経費分を賃料の中に含ませて、その支払を受けることにより行われている。
 そのため、建物の賃貸借において、賃借人に通常損耗についての原状回復義務が認められるためには、少なくとも、賃借人が補修費用を負担することになる通常損耗の範囲が賃貸借契約書の条項自体に具体的に明記されているか、仮に賃貸借契約書では明らかでない場合には、賃貸人が口頭により説明し、賃借人がその旨を明確に認識し、それを合意の内容としたものと認められるなど、その旨の特約(以下「通常損耗補修特約」という)が明確に合意されていることが必要であると解するのが相当である(最高裁平成17年12月16日判決)。

2 本件特約では、「解約時の畳・襖・クロス・クッションフロア等の張り替え及び壁の塗り替え等その他補修費用は折半とする。但し、室内クリーニング・エアコンクリーニング・破損箇所は全額借主負担とする。」と記載されているにとどまり、Yが補修費用を負担することとなる通常損耗の範囲を具体的に明記したものと認めることはできず、本件特約をもって通常損耗補修特約を定めたということは困難であるといわざるを得ず、Xの主張は採用することができない。また、全証拠を精査しても、通常損耗補修特約が明確に合意されていることを認めるに足りる的確な証拠はない。したがって、通常損耗に係る補修費用をYに負担させることはできない。

3 Yの居住期間が12年間であること等を考慮すると、Yの善管注意義務違反による通常損耗の範囲を超える毀損汚損部分(特別損耗)とその原状回復費用は、@和室の畳の破れ・変色2万6250円、A和室の天井板の穴1万1790円、B台所の天井化粧石膏ボードの穴1万2402円、C洋室の天井化粧石膏ボードの破損及び壁クロスの穴・変色3万3125円、D洋室の床フローリングの破損1万5120円、Eその他1万6980円の合計11万5667円、消費税を加え12万4920円となり、Yの負担する未払の原状回復費用は、敷金残額11万7967円との差額の6953円のみとなる。

第4 本判決に学ぶこと
1 判例により、通常損耗補修特約、すなわち通常損耗分の原状回復費用を賃借人負担とする特約は、賃借人が補修費用を負担することになる通常損耗の範囲を具体的に明記するなどして、明確に合意されていなければ効力を生じないとされています(前掲・最高裁平成17年12月16日判決)。
 この「賃借人の負担の範囲を具体的に明記」「明確に合意」という要件は、かなりハードルの高いものです。本件では、「畳・襖・クロス・クッションフロア等の張り替え及び壁の塗り替え等」「室内クリーニング・エアコンクリーニング・破損箇所」との記載があり、負担の範囲をある程度特定したようにも読めなくありませんが、裁判所は、この程度の記載では判例のいう「賃借人の負担の範囲を具体的に明記」「明確に合意」という要件を充たさないとしています。この要件を充たすためには、賃借人が故意又は過失によって傷つけたり汚したりしたもの(特別損耗)だけではなく日常生活をする上で生じた汚損や破損(通常損耗)であっても賃借人が補修費用を負担すること、及びその対象となる通常損耗の範囲を明示すること、これに加えて具体的な金額についても認識できるものであることが必要であるといわれています(和根葡シ樹・判例タイムズ1245号53頁)。

2 上記平成17年最高裁判例が出された後に通常損耗補修特約が認められた裁判例としては、東京地裁平成23年6月30日判決があります。この裁判例は、事業用賃貸借(図書出版・販売業)において、「乙〔賃借人〕が設置した造作、内装その他の設備、物件を撤去し、且つ又その他の施設即ち床、壁を完全に新たにし、天井をペンキ塗装し、甲〔賃貸人〕の判断により備品、付属品に破損異常があれば修理し或いは清掃し、エアコンはオーバーホールし、表示物件(本件物件)を事実上の原形即ち入居時の状態に回復する。」という規定につき「単に賃借人が通常損耗につき原状回復義務を負担することのみならず、賃借人が負担する原状回復工事の内容が契約の条項自体に具体的に定められているから、賃借人が補修費用を負担することになる通常損耗の範囲が賃貸借契約書の条項自体に具体的に明記されているということができる。」と判示しました。
 上記の2つの裁判例の特約には明白な相違点がないように思われますが、それにもかかわらず、一方は効力あり、一方は効力なしと判断が分かれています。このように、「明確に合意」に該当するといえるか否かの線引きは、極めて難しいということができます。
 なお、居住用賃貸借の事案では、専門業者によるハウスクリーニングを賃借人負担で行うことを義務づけた特約(金額を賃貸借契約書に明示しておくもの)を除けば、通常損耗補修特約の効力が肯定された例はほとんどみられないといわれています(渡辺晋『建物賃貸借』〔大成出版社、2014年〕548頁)。

3 また、仮に「明確に合意」していたとしても、通常損耗補修特約が無効になる場合があります。例えば、賃借人に過大な負担を負わせるものと解される場合には、公序良俗違反(民法90条)や消費者の利益を一方的に害する条項(消費者契約法10条)を理由にして、通常損耗補修特約が無効になることがあります。
 このような観点から、通常損耗補修特約が有効であるためには、「具体的に明記」の要件を充たすことのほか、特約の必要性があり、かつ、暴利的でないなどの客観的・合理的理由が存在することが必要であると思われます。

4 国土交通省の「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」(再改訂版。https://www.mlit.go.jp/jutakukentiku/house/jutakukentiku_house_tk3_000021.html)のうちQ&AのQ3(38頁)では、以上の判例を踏まえ、通常損耗補修特約が有効になるための要件が次のとおりまとめられています。参考にしてください。

@ 特約の必要性があり、かつ、暴利的でないなどの客観的・合理的理由が存在すること
A 賃借人が特約によって通常の原状回復義務を超えた修繕等の義務を負うことについて認識していること〔この点のハードルが高いことについては上記1・2のとおりです〕
B 賃借人が特約による義務負担の意思表示をしていること


5 賃借人が通常損耗の原状回復費用を原則として負担しないということについては、本記事の冒頭でも触れたとおり、改正民法621条で明文化されました。改正民法621条は次のとおりです。次の条文の本文(「ただし…」よりも前の文)のうち、括弧書きの中に注目して読んでみてください。

(賃借人の原状回復義務)
 第621条 賃借人は、賃借物を受け取った後にこれに生じた損傷(通常の使用及び収益によって生じた賃借物の損耗並びに賃借物の経年変化を除く。以下この条において同じ。)がある場合において、賃貸借が終了したときは、その損傷を原状に復する義務を負う。ただし、その損傷が賃借人の責めに帰することができない事由によるものであるときは、この限りでない。

以上

(一財)大阪府宅地建物取引士センターメールマガジン令和元年11月号執筆分