『賃貸物件における原状回復費用について(判例解説)』


弁護士 田 仲 美 穗

1 はじめに
  (1) 原状回復義務と判例法理・改正民法(債権法)
 建物賃貸借が終了すると,賃借人は,目的物を原状に回復して返還しなければなりません(現行民法616条による598条の準用)。
 では,@回復すべき「原状」とは,どのような状態なのでしょうか。ア)「賃貸開始時点の状態(例えば,クロスを新品に張り替えて賃貸した場合は,クロスを新品に張り替えた状態)」を指すのか,それとも,イ)「通常の使用によって損耗した場合はその損耗した状態」を指すのかがまず問題です。
 また,A原状回復の内容について,賃貸開始時への復旧(上記ア))を内容とする特約を結んだときはどうか。特約が有効となることがあるのか,有効となるとすればどのような条件が必要なのかということも問題となります。
 これらの問題については,@通常損耗は原状回復の対象とならない,A通常損耗補修特約は,明確に合意されている場合に限り有効とするのが,確立した判例法理といえます(最二小判平成17年12月16日判例時報1921号61頁)。
 令和2年4月1日から施行される改正民法(債権法)では,上記@の通常損耗は原状回復義務の対象とならないという判例法理を明文化しています(改正民法621条)。

  (2) 実際の状況
 以上のとおり,ルールとしては,「通常損耗は原状回復義務の対象とならない」という判例法理が確立されています。換言すれば,「通常損耗の回復費用は賃料に含まれている」ということです。国土交通省も,判例法理に沿って,「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」(平成23年8月再改訂)を策定し,より具体的な内容を示しています。したがって,本来からいえば,そのケースが通常損耗に該当するかどうかというような事実認定の争い以外では,紛争となることはないはずです。
 ところが,現実の社会では,賃貸人が,原状回復として「賃貸開始時への復旧」を要求し,賃借人がこれに応じるという事態が往々あるように見受けられます。このような現実と判例法理との乖離があると,その間で紛争が生じやすくなる,つまり,建物賃貸借の原状回復に関しては,賃貸人・賃借人間で,しばしば紛争となる事態が見られるようです。
 以下でご紹介する判例は,形の上では,おおむね「通常損耗かどうか」と「損害額として相当か」という事実認定での争いとなっていますが,あちこちに賃貸人の「賃貸開始時への復旧」の要求が垣間見えるものといえます。なお,説明の便宜のため事案は簡略化しています。

2−1 裁判例(東京地判H28.8.19 RETIO 113-140)
(1) 事案の概要
  ア)  平成14年9月,賃借人Xは,賃貸人Yの所有する昭和47年築のアパートの1室(本件アパート)を賃借した。その後,平成26年8月,Xは賃貸借契約を解約し本件アパートを明け渡した。
  イ)  XはYに対し,敷金等計219,164円の支払を求めて提訴した。
  ウ)  これに対し,Yは,以下のように主張してXの請求を争った。
 即ち,本件アパート内部は相当に荒れ果てていた,壁・天井の塗装,便器取替,クッションフロア取替,襖張替,ルームクリーニングその他(ただし,一部はXの負担割合を50%に減縮し,他はXの100%負担)の費用として,Xが負担すべき原状回復費用は計435,750円である。
(2)  裁判所の判断
 本件は,上記のYの主張の当否が実質的な争点である。
 裁判所は,結論として,Yの主張のうち,一部につきXの責任を認め,Xが負担すべき原状回復費用は計68,153円(諸経費・消費税を含む)であると判断した。
 裁判所の判断内容は,概要,以下のとおりである(以下の金額は税別)。
  @ 襖張替のうちXが責任を自認した2枚分20,800円をX負担と認める。
  A ルームクリーニング35,000円については,Xが日頃の清掃を十分行っていなかったとして,X負担と認める。
  B 壁・天井の塗装については,5,280円をX負担と認める。理由は以下のとおり。
 即ち,Yは,壁及び天井の塗装につき,全面的な塗り替えが必要であることを前提として,Xがその費用の50%を負担すべきであると主張するが,そもそも,本件アパートが築後約42年を経過していること,Xが本件居室を約12年間にわたって賃借していたこと等からすると,通常使用がされていた場合の本件居室の塗装の残存価値は,塗装の再施工に要する費用(105,600円)の10%と見るのが相当であるところ,Xの使用状況に照らすと,その半分である5%についてXの負担とするのが相当である。
  C クッションフロア取替についても,通常使用がされていた場合の残存価値は,再施工に要する費用(28,000円)の10%と見るのが相当であるところ,Xの使用状況に照らすと,その半分である5%についてXの負担とするのが相当とし,1,400円をX負担と認める。
  D 以上のほかは,Xの故意過失により損耗したとは認められないなどとして,Xの責任を否定した。
2−2 裁判例(東京地判H28.6.28 RETIO 113-142)
(1) 事案の概要
  ア)  平成25年2月,賃借人甲は,賃貸人乙からマンションの1室(本件マンション)を賃借した。その後,平成26年12月,甲は賃貸借契約を解約し本件マンションを明け渡した(賃借期間約1年10か月)。
  イ)  明渡後の本件マンションには,収納扉・化粧鏡等には穴や傷などの破損,壁のクロスには喫煙による変色・臭いが付着していた。
  ウ)  乙は甲に対し,敷金及び受領済みの金員を除いた金273,520円の支払を求めて提訴した。
  エ)  これに対し,乙は,収納扉の作り替えや化粧鏡の交換費用は高額過ぎる,などと主張して乙の請求を争った。
(2)  裁判所の判断
 裁判所は,結論として,乙の主張のうち,諸経費(現場監督費)を除いて,その余の223,520円の請求をすべて認めた。
 裁判所の判断内容は,概要,以下のとおりである。
  @ 天井クリーニングは,甲の喫煙によるヤニ汚れによるもので,自然損耗ではないので,甲に支払義務がある。
  A 壁クロス張替は,甲の喫煙によるヤニ汚れによるもので自然損耗ではなく,また数量的・場所的限定は不可能であるので,甲に全額の支払義務がある。
  B 収納扉の破損は,少なくとも甲の過失によるもので,甲に支払義務がある。金額としても不相当とは認められない。
  C 化粧鏡の破損は,甲の過失によるものであり,また化粧台と化粧鏡は一式セットで交換しなければならないので,全額について相当と認める。
  D 諸経費(現場監督費)は,必要性を認められない。
3 コメント
(1) 上記の裁判例では,「通常損耗」かどうかと「相当な損害額」に関して,留意すべき判断が示されています。
  @  タバコのヤニによる汚損は通常損耗か
 上記2−2裁判例(賃借期間約1年10か月)では,賃借人の喫煙によるヤニ汚れについて,通常損耗ではなく,また部分的回復が不可能であるので,賃借人がその回復費用全部を負担すべきものとしました。
 上で述べた国土交通省の「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」にも,タバコ等のヤニや臭い喫煙等により当該居室全体においてクロス等がヤニで変色したり臭いが付着した場合,当該居室全体のクリーニングまたは張替費用を賃借人負担とすることが妥当と考えられる,との見解が示されており,上記2−2裁判例もこれに沿ったものと言えます。
 ただし,賃借人によるヤニ汚れの回復費用が,常に賃借人負担となるわけではありません。即ち,同ガイドラインは,壁(クロス)について,6 年で残存価値1 円となるような負担割合を算定する,との見解を示しています。裁判例としても,上記のガイドラインに沿って,タバコに起因すると推認される黄色変色が壁及び天井の一部に存在するものの全部ではないこと,賃借期間が8年を超えることからすると,この変色は通常損耗を超えるものとは認められない,として,タバコによる壁等の変色の回復費用につき賃借人の負担を否定したものがあります(東京地判平成25年3月28日)。

  A  設備に関する負担の単位をどう考えるべきか(相当な損害額)。
 上記のガイドラインでは,設備に関して,賃借人が負担する場合の単位について,「補修部分,交換相当費用」としています。 つまり,分けられるものは分けるべきだという考え方です。
 この点,上記2−2裁判例では,とくに化粧鏡の破損について,化粧台との一式セットが相当かどうかが争われたようですが,裁判所は,個々に補修部分の区分けをすべきでないと見て,一式セットの交換が相当と判断しました。

  B  12年間の賃貸期間後の原状回復では,通常損耗による残価をどの程度に見るべきか(相当な損害額)。
 上記2−1裁判例では,天井・壁の再塗装について,本件アパートが築後約42年が経過していること,Xが本件居室を約12年間にわたって賃借していたこと等からすると,通常使用がされていた場合の本件居室の塗装の残存価値は,再施工に要する費用の10%と見るのが相当と判示しています。クッションフロア取替については築年数などの摘示はありませんが,残存価値は同様に10%と判示しています(本件では,Xの使用による損耗が通常損耗を超えていたと見られたために,この残価10%の半分の5%を負担すべきだとされました)。
 経過年数(入居年数による代替)の考え方は,上記のガイドラインにも示されているところです。

(2)  なお,冒頭でご紹介した原状回復特約についての最判平成17年は,消費者契約法よりも前の判例であるため,現行の消費者契約法のもとでは,特約が消費者契約法に違反するかどうかという問題もあります。この最判が非常に限定した範囲で特約を有効と認めたことからすれば,消費者契約法のもとでも有効と解する余地はあるように思われます。

(3)  ここまで何度も触れましたが,国土交通省の策定する「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」は判例法理を踏まえつつ,より一層具体化を図ったものです。大阪府では,このガイドラインをさらに具体化し,分かりやすくしたパンフレットを作成しています。不動産賃貸借に関わる方々におかれましては,是非,これらを活用していただき,判例法理が空論ではなく,公正なルールとして社会の隅々にまで実現されるようになることを願ってやみません。

以上

(一財)大阪府宅地建物取引士センターメールマガジン令和元年12月号執筆分