賃貸借契約締結直前の破棄による損害賠償請求


弁護士 宮下 幾久子


1 はじめに

 契約準備交渉段階に入った当事者は、緊密な関係に入るので、相手方に損害を被らせないようにする信義則上の義務があり、その義務に反して相手方に損害を与えた場合には損害賠償責任を負うとされています。
 今回ご紹介する裁判例は、賃借申込人が契約締結直前に一方的に交渉を破棄したことにより賃貸人側が損害を被ったとして、賃借申込人に対する損害賠償請求が認められた事案(令和元年9月3日札幌高裁判決)です。


2 事案の概要

(1)
 Y社は、平成28年4月18日頃、本件建物をドラッグストアの店舗として利用したいと考え、仲介業者を通じて本件建物の所有者であるX社に賃借の申込をした。Y社の希望する条件は、賃貸期間3年間、スケルトン状態での引き渡しであった。
 当時、本件建物ではX社が経営する店舗が営業中(黒字経営)であり、業務用の大型冷蔵庫などが設置されていたため、Y社にスケルトンの状態で引き渡すには時間も費用もかかることから、X社としては、賃貸借契約が3年以上継続して初めて利益が出る状況であった。

(2)
 6月2日、X社は仲介業者を通じてY社に対し、@Y社が中途解約する場合には敷金返還請求権を放棄すると共に3年分までの賃料を支払う(賃料保証条項)、A契約期間を3年間とするのであれば、賃料か敷金を増額する、B隣の物販店との競業を避けるため事前承諾を得ていない食品・飲料の販売を禁止する(販売規制条項)ことを契約書に盛り込むことを要求すると共に、本件建物の引渡時期を9月以降にしてもらいたいと要望した。
 Y社は、当初、賃料保証条項を設けることに難色を示していたが、最終的に取締役会の承認が得られたことから、7月20日までには仲介業者を通じてX社に対し、賃料保証条項を設けること及び賃貸期間を5年間とすることは可能である旨回答した。
 引渡日については、その後のやりとりを経て11月1日となった。

(3)
 X社は、9月に入ってから、仲介業者を通じてY社に対し、賃料保証条項の賃料保証期間を3年間から5年間にしてもらえないか申し入れたが、Y社は取締役会で承認された事項なので変更できないと仲介業者を通じて回答した。
 Y社担当者は、9月30日、X社を訪れX社担当者と面談した。この面談において、出席者の間で本件賃貸借契約の内容につき認識の共通化が図られ、10月6日、契約書の最終案と重要事項説明書が仲介業者を通じてY社担当者に送られた。

(4)
 Y社担当者が決裁権者に本件賃貸借契約締結の確認を求めたところ、了承されずに本件賃料保証条項などの見直しを指示された。
 Y社担当者は、10月11日に仲介業者に電話で本件建物の11月1日の引渡を中止して欲しいと伝え、翌12日にはX社担当者にも電話し、本件建物の引渡中止を申し入れると共に、決裁権者が出張から帰った10月28日にX社を訪問して詳細な説明をする旨伝えた。

(5)
 X社担当者は、10月14日、仲介業者を通じてY社担当者に対し本件建物の引渡中止を求める理由を書面で提出するよう求めたところ、インバウンド市場が全体的に低下していることから本件賃料保証条項や本件販売禁止条項に違反した場合の違約金額の見直しをして欲しいとのことであった。
 10月28日、Y社の担当者と決裁権者がX社を訪問し、本件賃料保証条項の見直しなどを求めたが、X社側が拒否し、交渉が決裂した。

(6)
 X社は、11月1日に本件建物をスケルトン状態で引き渡すための準備として、10月7日頃までに解体業者との間で本件建物内部の解体工事の請負契約を締結していた。10月17日には解体工事を開始し、それまでに本件建物内の店舗を閉店して従業員の配置換えや商品等の搬出を済ませる必要があった。
 X社はY社との交渉決裂を受けて、解体業者に対し請負契約の解約を申し入れたが、工事直前の解約であるため人工の手配を止められず実損の限度で損失補填を余儀なくされた。

(7)
 X社はY社に対し訴訟を提起し、@Y社との間で賃貸借契約が成立している、少なくとも違約金条項についての合意は成立していると主張して、一方的破棄による違約金2840万円の支払を求めると共に、A予備的に、Y社が一方的都合により契約成立を妨げたことによって損害を被ったとして不法行為に基づく金729万5470円の損害賠償を求めた。

3 裁判所の判断

@違約金請求について
 本件賃貸借契約は成立に至っておらず、契約成立に先だって別途違約金の支払合意を交わした上で交渉を進めたというのでない限り、違約金の支払を求めることはできないと判示しました。

A不法行為に基づく損害賠償請求について
 X社において契約成立が確実なものと期待するに至り、Y社もそれを認識しているにもかかわらず、正当な理由なく本件賃貸借契約の成立を妨げる行為をしたとしてY社は不法行為責任を負い、X社が解体業者に支払を余儀なくされた金729万5470円の損害を賠償する責任があると判示しました。

4 解説

(1)違約金について
 本件における賃貸借契約書最終案には「Y社が自己の都合により賃貸借開始日までに本件契約を解除するときは、契約締結時に支払った敷金に同額を加算した金額を違約金としてX社に支払う」旨の条項がありました。
 上記違約金条項は契約成立を前提としていることが明らかですし、Y社担当者は交渉担当者であり本件賃貸借契約締結の意思表示をしたとはいえないのでX・Y間で賃貸借契約は成立しておらず、X社の違約金請求は認められませんでした。

(2)契約締結上の過失
 冒頭でも述べましたが、契約準備交渉段階に入った当事者間は緊密な関係になるので、お互い相手方に損害を被らせないようにすべき信義則上の義務を負うとされています。そして、自らの責めに帰すべき事由によりその義務に違反して相手方に損害を与えた場合には、損害賠償責任を負うことになります。「契約締結上の過失」といわれる法理です。
 本件においては、X社とY社の間で約5ヶ月以上の期間をかけて賃貸借契約締結に向けた協議が進められていました。9月30日には両者の間で最も困難な交渉課題であった賃料保証条項を含む認識の共通化が図られ、10月6日にはX社からY社担当者宛に契約書の最終案や重要事項説明書が送られました。
 Y社担当者からは異論もなく最終決済を得る準備を進めていた状況であったことからすると、10月7日頃の段階においてX社は契約の成立が確実なものと期待するに至ったと評価でき、このような期待は法的保護に値すると認められました。
 Y社は、X社のこのような期待を認識していたにもかかわらず、10月11日になって本件建物の引き渡しの中止を求めると共に、共通認識に至っていたはずの賃料保証条項や販売規制条項に違反した場合の違約金額の見直しを求めたうえ、10月28日まで直接交渉をすることもなく時間を経過させました。
 裁判所は、上記のようなY社の行為は、それまでの交渉経緯に照らし、正当な理由なく本件賃貸借契約の成立を妨げる行為であるとして、Y社はX社に対し不法行為に基づく損害賠償責任を負うと判示しました。

(3) 損害額について
 Y社から本件建物の引渡し中止の申し入れがあった時点では、X社は11月1日の本件建物のスケルトン状態での引渡しに間に合わせるべく既に業者に依頼して準備にかかっていました。10月28日の交渉決裂まではX社において直ちに業者との契約を解消することも難しく、最終的にY社との交渉決裂により損失が発生することは避けがたい状況であったといえます。
 X社は、業者の損失補填の求めに対し実損の限度で損失補填することとし、廃棄物処分費用など不要となった支出を除いた実損の見積書を業者に提出してもらったうえで支払いました。
 裁判所は、業者の提出した見積もりに特に不合理な点はなく、X社が業者に支払った金額全てをY社の不法行為と相当因果関係にある損害であると認めました。

5 その他の裁判例の紹介

(1)
 賃貸借契約締結直前の破棄について、損害賠償請求を認めた他の裁判例として、東京高裁判決(平成20年1月31日)を紹介しておきます。
 事案は、高層ビルのフロアの賃貸借契約の締結を交渉していた当事者間において、5ヶ月あまりの交渉期間を経て当事者双方ともに契約締結にあたっての重要な課題がクリアされたと考えるに至った段階で、賃借人側が正当な理由なく契約締結を破棄したというものです。
 賃貸人側は賃貸借契約が成立することについて強い期待を抱き、交渉対象部分を賃借人募集対象からはずす社内手続をとり、そのことを賃借人側も承知していました。
 裁判所は、賃借人側に契約準備段階における信義則上の注意義務違反があるとして、交渉対象部分を他に賃貸する機会を喪失したことにより得られなかった賃料収入及び共益費相当額の損害を賠償する責任があると判示しました。

(2)
 次に、損害賠償請求を認めなかった裁判例として、東京地裁判決(平成28年1月21日)を紹介します。
 事案は、仲介業者の不手際でテナント募集の条件(礼金2ヶ月分、連帯保証人の資力要件を裏付ける資料の提出)が賃借人側に正確に伝わっておらず、交渉が円滑に進まなかったことから賃貸人側が賃借人側に不安感を抱き、契約締結を拒否したというものです。
 賃借人側のみが契約書面に署名押印した状態で、賃借人側は賃貸精算書に記載された金額を振り込み、内装工事も発注していました。
 裁判所は、賃貸人側の条件は当初から提示していたものであり、それが満たされないことで賃貸人側が賃借人側に不安感を抱き、契約締結を白紙に戻したいと考えてもやむを得ないし、内装工事を承諾したこともないと認定したうえで、賃貸人側が賃借人側に対し契約が確実に締結されるとする強い信頼を与えたとは認められず、契約締結拒絶が信義則上の注意義務に違反するとまでは認められないと判示しました。

(一財)大阪府宅地建物取引士センターメールマガジン令和3年12月号執筆分