『口頭による賃貸借契約の成立が否定された事例』
(東京地裁令和2年10月7日判決 ウエストロー・ジャパン)


弁護士 森 脇 雅 典


1 はじめに

 賃貸借契約は、有償・双務契約であるとともに、当事者の合意のみで契約が成立する諾成契約であります(目的物の引渡しは契約の成立要件ではない)。また、公正証書などの書面の作成が有効要件となっている定期借地権・定期借家権とは異なり、一般の賃貸借契約は不要式契約です(書面の作成が義務づけられていない)。
 そこで、賃貸借契約書の締結が正式に行われていないケースで、当事者は、口頭による賃貸借契約の成立を主張することができるでしょうか?
 本件は、建物の賃貸借契約において、当事者間で賃貸借契約書の正式な署名押印が行われていない段階で、賃借希望者(「被告Y」)が建物所有者(「原告X」)より受け取った本件建物の鍵を利用して同建物の占有を開始し、これを継続したため、原告Xが所有権に基づき本件建物の明渡し及び占有開始日から明渡しまでの賃料相当損害金を求めて訴訟を提起したのに対して、被告Yが、本件建物につき賃貸借契約が口頭により成立したとして、その占有権限を抗弁として主張した事案であります。まさに口頭による賃貸借契約の成否が問題となった事案です。


2 事案の概要

(1)
 本件建物の所有者Xは、所有する建物(以下「本件建物」)について、仲介会社Aを介して、宝石等の販売を使用目的にするとした賃借希望者Yと、賃貸借契約締結に向けて交渉していた。

(2)
 令和元年11月初頃、YがXに対して、本件建物の賃借の申入れをした。
(3)
 Aは、「見本」との記載がある同年12月5日付の請求書(「本件請求書」)と貸主欄に署名押印のない本件建物の賃貸借契約書(「本件賃貸借契約書」)を、同月半ば頃までにYに交付し、本件賃貸借契約書にYの捺印を求めた。

(4)
 本件請求書には、請求金額として1220万円(本件建物の令和2年1月分の賃料110万円、保証金及び仲介手数料1110万円)が記載されていたところ、Yは、令和元年12月13日、本件請求書の記載に従いAを通じてXに対し1220万円を支払った。また、Yは、同日頃、本件建物の鍵を受領した。

(5)
 Xは、令和元年12月26日、Yが本件建物に神社を設営した上で宗教的な行為を行う旨のチラシを配っていることを知るなどしたことから、Yに対し不信感を抱いた。

(6)
 Xは、令和元年12月26日、Yに対し、本件建物の賃貸借契約を締結しない旨を伝えた。また、令和2年1月9日、Yから受領していた1220万円を返還した。
 Yは本件賃貸借契約書にYの記名押印をしてAに返送したが、Xはこれに署名押印しなかった。

(7)
 Yは、令和元年12月26日から現在までの約7か月間、Xに対して1か月110万円の割合による賃料又は賃料相当損害金を全く支払っていない。

(8)
 Yは鍵を返還せず、本件建物の占有を続けたため、XはYに対し、本件建物の所有権に基づく明渡し及び占有開始日から明渡済みまで1か月110万円の割合による損害金を求めて提起したのが本件訴訟である。

(9)
 Xの前記請求等に対し、Yは、本件建物につき賃貸借契約が口頭により成立し、この賃貸借契約(賃借権)に基づいて本件建物を占有しているとして、争った。

(10)
 令和2年7月29日、Xは予備的に賃貸借契約が口頭により成立していたとしても、Yは約7か月もの長期間にわたり賃料を全く支払っていないなど、Yの背信性が著しいとして、賃貸借契約を解除する旨の意思表示をした。


3 判決の要旨
  裁判所は、次の通り判示し、XのYに対する請求を認容しました。

(1)(賃貸借契約の成否)
 Yは、遅くとも令和元年12月14日までには、XとYとの間に本件建物につき賃料月額110万円、期間を令和2年1月1日から令和4年12月31日とする賃貸借契約が口頭により成立したと主張する。
@
 そこで検討するに、認定事実によれば、令和元年11月にはXとYがAを介して本件建物の賃貸借契約の締結に向けて交渉していたこと、YがAから交付された本件請求書の記載に従い同年12月13日に1220万円を支払ったこと、同月半ば頃までにAが本件賃貸借契約書をYに交付し、その後Yが本件賃貸借契約書に記名押印して返送したこと、同月13日頃にYが本件建物の鍵を受領し同月26日以降本件建物を占有していることが認められ、これらの事実を総合すると、少なくとも令和元年11月半ば頃までは、AとYは、Yが本件建物をXから賃借することを前提に諸々の手続を進めていたことが認められる。

A
 しかし他方、Yに交付された本件請求書には「見本」との記載があったこと、Xは、本件賃貸借契約書に署名押印しておらず、かえって令和元年12月26日には本件建物の賃貸借契約を締結しない旨をYに伝えたこと、XはYが本件請求書の記載に従って支払った1220万円を令和2年1月9日に返還したことが認められる。
 そうすると、XがYとの間で本件建物の賃貸借契約を締結する旨の意思表示をするに至ったと認めるには足りないといわざるを得ず、X・Y間での賃貸借契約の成立は認められない。

(2)(賃貸借契約の解除による終了:予備的主張)
 仮に、令和元年12月14日までにXとYとの間に本件建物につき賃貸借契約が成立した旨のYの主張を前提とするとしても、Yは、本件建物の占有を開始した令和元年12月26日から現在までの約7か月もの長期間にわたりXに対し本件建物の賃料を全く支払っていないのであるから、上記賃貸借契約は、Xによる解除の意思表示により令和2年7月29日に終了したと認められる。

(3)(結論)
 よって、本件建物につき賃借権を有する旨のYの主張は採用することができないから、Xの本件建物の所有権に基づく本件建物の明渡請求は理由がある。また、本件建物の賃料相当損害金は少なくとも1か月当たり110万円であることが認められるから、Yによる本件建物の占有開始の日である令和元年12月26日から同建物の明渡済みまで1か月110万円の割合による損害金の支払請求も理由がある。

4 考察

(1) 口頭による賃貸借契約の成否
 本判決は、請求書に「見本」との記載があったこと、本件建物所有者であるXが本件賃貸借契約書に署名押印をしなかったのみならず、却って本契約を締結しない旨をYに伝えたこと、Yから前記請求書に従って支払われた1220万円をXがYに対して全額返還したことなどの認定事実により、本件建物に関する賃貸借契約の口頭による合意(Xの契約締結の意思表示)を否定していますが、Xが本件賃貸借契約の締結を望まないとする一連の認定事実からは妥当な結論であります。
 本判決は、賃貸借契約書の貸主欄の署名押印が無いこと(すなわち賃貸借契約書が締結に至っていないこと)のみによって賃貸借契約の成立(Xの賃貸借の意思表示)を否定したものではありません。契約内容が具体的に特定されていることからすれば、賃貸借契約書の存在は、むしろ口頭による契約の成立を肯定する事情の一つとなり得るものであります。
 本件では、本件建物の使用目的に関する不信感を抱くや否や、直ちに、Yに対して契約締結をしない旨の意思表示をしたこと、既に支払われていた金員を全額返還したことなど、Xの本件建物に関する賃貸借の意思表示が無いことが明らかであった(静的安全の保護)と言えるほか、他方では、契約書の貸主欄が未だ空欄のままであるなど、賃借希望者であるYの取引の安全の要請は、Xの要保護性に比して乏しかったことなどの事情が、本件判決の結論を導いたものとも言えます。ただし、「見本」との記載があったとは言え、請求書には具体的な請求金額(例えば、令和2年1月分の賃料)が記載されていた上に、上記請求書の内容に従って、Yが1220万円もの高額な金員の支払いを行っていたこと、左記金員の支払い時点では、Xにおいても当該契約の締結に消極的な意向等は示されていなかったことなどは、口頭による契約の成立を肯定する事情と言えるものであります。XがYの使用目的に関するチラシの存在に気付き、契約締結をしない旨の意思表示をしたのが、本件賃貸借契約の開始(令和2年1月1日)前であったという重大な事情等が加味された上で、本件結論が導き出されたと言えるでしょう。
 仮に、Xが令和元年12月26日の時点で、Yの使用目的に気付かず(契約締結を取り止める旨の意思表示をせず)、そのまま令和2年1月1日(本件賃貸借契約の開始時期)を迎えていたとすれば、賃貸借契約書の貸主欄の署名押印が行われていなかったとしても、Yの占有の事実と相まって、口頭による賃貸借契約の成立が認められていた可能性は十分にあったと言えます。その場合、後日発覚した使用目的に関する事情等は、契約締結にかかる貸主側の錯誤等などにより処理されることになるでしょう。
 なお、本件では、Xの予備的な主張に対する本来不要な裁判所の判断が行われています。この点、余談ですが、Yとしては、占有権限(賃借権)を争う以上、債務不履行解除の主張に対抗するために、賃料の支払い(又は提供)は必要不可欠であったと思われます

(2)契約書が作成されていない場合における当事者間の合意の推認
 賃貸借契約は、一般に不要式契約であり、目的物の使用収益と賃料の支払いとが合意されていれば、契約書の作成や保証金の授受等がなくとも、契約の成立が認められます。
 この点、賃貸借契約書が作成されていない場合には、@契約当事者における事情(契約の必要性・動機・使用目的など)、A交渉経緯、Bその他の事情(目的物の引渡の有無、使用収益状況、賃料の支払い等)などの間接事実によって、当事者間における合意の有無が推認されることになります。
 本事案においても、使用目的(契約当事者の事情)、交渉経緯、Xが契約を締結しない旨を伝えたこと(及びその時期)、一旦受領した賃料等の返還などの事情が契約の成否の間接事実として考慮されています。

(3)契約書と契約の成否に関する参考判例
 契約書は作成されていないものの賃貸借契約の成立を肯定したものとして、【東京高裁昭和56年4月23日判決(判タ452号106頁)】があります。
 契約書が作成されていないことを理由に賃貸借契約の成立を否定したものとして、【東京地裁平成9年1月23日判決(判タ951号220頁)】、【東京高裁平成14年3月13日判決(判タ1136号195頁)】などがあります。
 契約書は作成されていないが黙示的に賃貸借契約の成立を認めたものとして、【神戸地裁昭和62年6月24日判決(判タ655号172頁)】があります。

以上

(一財)大阪府宅地建物取引士センターメールマガジン令和4年3月号執筆分