保証金の返還債務は賃貸物件の売買当事者間で引き継がれた
 金額に拘らず新賃貸人に承継されるとした事例

(東京地裁令和3年10月8日判決 ウエストロー・ジャパン)


弁護士 森 脇 雅 典


1 はじめに

 賃貸物件の所有者である貸主は、借主の承諾なしに当該賃貸物件を譲渡することができます。この場合、旧貸主と借主との間の賃貸借契約は、当然に、賃貸物件の譲受人に承継されます。いわゆる賃貸人の地位の移転です(最高裁昭和46年4月23日判決、改正民法605条の3参照)。
 ところで、賃貸物件の売買の当事者間で、借主が旧貸主との間で定めた保証金(金額)と異なる保証金額が引き継がれた場合、借主は、旧貸主との間の保証金に関する合意内容を新貸主に主張することができなくなるのでしょうか?
 本事案では、借主は旧貸主に対し、賃貸借契約締結に当たって、保証金300万円を差し入れましたが、賃貸物件が転々譲渡され、新所有者に貸主の地位が承継されるに至り、新所有者が前所有者より引き継いだ保証金額が200万円に変更されていたということで、借主からの新貸主に対する300万円(償却合意により200万円)の保証金の返還が認められるかが争われました。


2 事案の概要

(1)当事者
@  X(原告) 不動産の売買、賃貸、管理及びその仲介、代理等を業とする株式会社
A  Y(被告) 不動産の取得、所有、処分及び賃貸借等を業とする株式会社

(2)H26.9.10 X(借主・原告)−A(貸主・訴外) 事業用賃貸借契約締結(以下「本件賃貸借契約」)
@ 事務所ビル(以下「本件建物」)、月額賃料50万円、期間3年間
A 保証金300万円(税抜家賃6ヶ月分)、解約時に解約時賃料2ヶ月分を償却

(3)H27.3.2 A−B(訴外) 本件建物売買契約
Bが賃貸人の地位を承継

(4)H29.8.31 X−B(貸主・訴外) 新たな事業用賃貸借契約締結(以下「本件更新契約」)
@  期間 H29.9.10から3年間
A  保証金について以下の規定(第6条)が定められていた。なお、同旨の規定は本件賃貸借契約においても規定されていた。
1)  乙は、本契約から生じる債務の担保として、保証金を甲に預け入れるものとする。
2)  乙は、本物件を明け渡すまでの間、保証金をもって賃料、共益費その他の債務と相殺をすることができない。
3)  甲はこの契約の解除または終了により、乙が当該賃貸借物件についてこの契約に定める明渡しその他の義務を完全に履行したことを甲が認めた場合には、遅滞なく第1項の保証金より償却費として解約時賃料の2か月分相当額を差し引き、返還するものとする。
4)  甲は、本物件の明渡しがあったときは、遅滞なく、賃料の滞納その他の本契約から生じる乙の債務の不履行が存在する場合には当該債務の額を差し引いたその残額を、無利息で、乙に返還しなければならない。
5)  前項の規定により乙の債務額を差し引くときは、甲は、保証金の返還とあわせて債務の額の内訳を明示しなければならない。

(5)H31.2.18 B−Y(被告) 本件建物売買契約
Yが賃貸人の地位を承継
(6)R1.12.8 X 本件賃貸借契約及び同更新契約を解約、本件建物を明け渡し

(7)R3.2.4  X→Y 本件保証金の精算及び返還請求(166万3642円)
@ 保証金300万円
A 約定の償却費100万円(解約時賃料2ヶ月分相当額)
B 未精算の日割家賃13万6358円
C 原状回復費用20万円
D (計算式) @−(A+B+C)


3 争点と当事者の主張

(1)争点
 Xが本件賃貸借契約締結時に預託した本件保証金の額が300万円か200万円か。

(2)当事者の主張
@ Xの主張
 Yは、本件建物を購入したことにより当然に本件賃貸借契約を承継しているところ、その場合、旧貸主Aに差し入れられた保証金についての権利義務関係は新貸主たるYに承継されるというのは確立した判例理論であって、Yが前所有者Bからいくら保証金を引き継いだかということはXからの保証金返還請求には何ら関係がない。また、Xが保証金の一部の返還を受けた事実など全くない。さらに、Xが本件保証金のうち100万円の返還を免除したことも、二重の償却を認めたこともない。
A Yの主張
 H31.2.18 、前所有者Bから本件建物を取得した際、保証金の額は200万円であるとの説明を受け、それに基づいて精算を行った(保証金として引き継いだ額は200万円)。
 仮にXが預託した本件保証金の額が300万円、Yが引き継いだ保証金の額が200万円であるならば、この100万円の差異は、どこかの段階で償却がなされたということであるから、借主に返還すべき保証金は償却後の200万円ということになる。


4 判決の要旨

 
裁判所は以下のとおり判示し、Xの請求を全額認容した。
(1)  本件賃貸借契約書、諸費用の精算書、預かり証、及び本件更新契約書には、いずれも本件建物の保証金として「300万円(賃料6ヶ月分)」との記載が認められる。
(2)  上記認定事実によれば、Xは、本件賃貸借契約締結時において、当時の本件建物所有者であるAに対し、本件保証金として300万円を預け入れ、本件更新契約においても同額が引き継がれたことが認められ、これを覆すに足りる的確な証拠はない。
(3)  また、本件賃貸借契約及び本件更新契約に係る各契約書における保証金の定め方からすれば、本件保証金は、賃借人の賃貸借契約上の債務を担保する敷金としての性質を有すると解されることから、旧賃貸人であるAに預け入れられた本件保証金は、本件建物の所有権移転及び賃貸人たる地位の移転に伴い、B及びYに承継されるものと解するのが相当である(最高裁第一小法廷昭和44年7月17日判決・民集23巻8号1610頁参照)。
(4)  したがって、Yは、Xに対し、本件保証金300万円から償却費100万円(税抜賃料2か月分)、令和2年12月分の日割賃料13万6258円及び原状回復費用を控除した額を返還する義務を負う。
(5)  Yは、Yの前所有者であるBから引き継いだ保証金が200万円であることから、Xが預託した本件保証金も200万円である旨主張するが、YがBから引き継いだ保証金が200万円であったとしても、AないしBにおいて100万円を償却した後の本件保証金を引き継いだということも十分考えられることから、直ちにXがAに預託した本件保証金の額が200万円であるとの結論が導かれるものではない。
(6)  Bが平成31年2月18日付けで作成した「貸主変更に関するおしらせ」には、保証金の額について合計200万円である旨の記載があるが、同書面はBが単独で作成したものであってXは作成に関与していないこと、Bとの間の本件更新契約に係る各契約書には、保証金の額が合計300万円であることが定められていることからすれば、上記「貸主変更に関するおしらせ」の記載内容をもって本件保証金の額が200万円であったと認めることもできない。


5 考察

(1)争点に関する結論
 判決は、Xの主張を認め、Xが本件賃貸借契約締結時に預託した本件保証金の額は300万円であると判断しました。
@ 保証金の性質と保証金返還債務の承継
 本件保証金は借主の賃料債務等を担保する「敷金」としての性質を有するものと認定し、本件建物の所有権移転及び賃貸人の地位の移転に伴い、同保証金返還債務は、新所有者に承継されるものと認定しました。
A 賃貸物件の譲渡当事者間で引き継がれた保証金の額と借主が預託した金額
 仮に、Yに引き継がれた保証金の額が200万円であったとしても、直ちに借主が預託した本件保証金の額が導かれるものではないとして、Yの主張を斥けました。

(2)本件判決の妥当性
 本件建物に関する本件賃貸借契約書、及び本件更新契約書の各記載からは、Xが差し入れた保証金が300万円であることが認められます。仮に、譲渡当事者間で引き継がれた保証金が200万円であったとしても、借主の前記預託後、賃貸物件が転々譲渡される際に、保証金の一部が償却され、償却後の保証金が引き継がれたことも十分考えられることから、借主が差し入れた保証金額(300万円)を覆す事情とはなりません。そして、本件保証金は、前記本件賃貸借契約書(第6条:保証金)の記載にもあるとおり、賃借人の賃料債務等を担保する敷金としての性質を有するものであります。以上の認定事実を前提としますと、Xが差し入れた本件保証金300万円が、本件建物の所有権の移転及び賃貸人たる地位の移転に伴って、AからB及びYに承継されるのは、確立した判例理論からすれば、当然の結論であります(前掲最高裁昭和44年判決参照)。

(3)保証金額の事後の変更
 本件では、前所有者Bが本件建物を新所有者Yに譲渡する際、200万円の保証金額を記載した「貸主変更に関するおしらせ」(書面)が前所有者Bによって作成されていますが、判決では、借主がその作成に関与しない書面であることを理由に、Yの主張(保証金額が引き継がれた200万円である)を斥けています。
 前記書面は、借主の預託した保証金の額に関する間接事実として主張されていますが、仮に、同書面を変更合意に関する主張(本事案では同主張は行われていない)の間接事実とした場合でも、おそらく判決の結論には影響なかったものと思われます。
 なお、新所有者において、借主との間で、当初の預託額(保証金)と異なる保証金額(返還金額)を新たに定めることは可能であります。

(4)借家関係の承継に関する最高裁判例

   借家関係の承継が問題となった最高裁判例として、
@ 旧借家法1条による賃貸借の承継には賃貸人からの通知を要しない(最判昭和33年9月18日判決:民集12.13.2040)
A 賃料前払いの効果(最判昭和38年1月18日判決:民集17.1.12)
B 転貸許容の特約(最判昭和38年9月26日判決:民集17.8.1025)
C 賃料の取立債務の約定(最判昭和44年7月17日判決:民集23.8.1610)
D 建設協力金としての保証金(最判昭和51年3月4日判決:民集30.2.25)
などがあります。
 A乃至Cは、新所有者への承継を認めましたが、D(保証金)は、「新所有者は、特段の合意をしない限り、当然には保証金返還債務を承継しない・・。」として新所有者への承継を否定しました。
 Dの判決では、建設協力金としての当該保証金が、賃借人の賃料債務その他賃貸借上の債務を担保する目的で交付され、賃貸借の存続と特に密接な関係に立つ敷金とも本質を異にするものであると認定されています。そして、本件建物の所有権の移転に伴って、新所有者が保証金返還債務を承継するか否かについては、当該保証金の前記性格から、未だ新所有者が当然に保証金返還債務を承継する習慣ないし慣習法があるとは認め難い状況のもと、新所有者が当然に保証金返還債務を承継するとされることにより不測の損害を被ることのある新所有者の利益保護の必要性と、新所有者が当然にはこれを承継しないとされることにより保証金を回収できなくなるおそれを生ずる賃借人の利益保護の必要性との比較衡量の結果から、上記結論(当然には承継されない)が導き出されています。名目上は本事例と同じく「保証金」の承継に関する事例(承継否定)であり注目すべきであります。

(5)民法改正との関係
 本件では、借主と旧貸主との間の保証金返還債務の内容が、賃貸人の地位の移転に伴い、新所有者に承継されるかが問われました。
 建物について賃貸借契約が締結され、借主が使用、収益している場合、建物の所有権が移転したときは、賃貸借契約が新所有者に承継されると解されていました(最高裁昭和38年8月28日判決、前掲同44年7月17日判決など)が、前記判例理論は、平成29年民法改正により明文化されました(新法605条2項)。また、同改正法により敷金についての定義及び基本的規定が定められました。これにより、保証金等と称するものであっても、賃料債務等の金銭債務を担保する目的で交付された金員については、同法622条の2の「敷金」に該当することになります。
 本件は、改正法施行前の賃貸借契約及び更新契約ではありますが、改正法は前述の通り、従前の判例法理を明文化したものでありますので、賃貸人の地位の承継に関する点に関して、改正前後で本件における結論に変わりはありません。

(6)最後に(補足)
 借主X,新所有者Yは、いずれも不動産賃貸業等を行う株式会社でした。そのほか、前所有者(旧貸主)A、Bはいずれも法人でした。
 新所有者YがBより本件建物を取得した際には、大手の不動産会社がその仲介を行っています。そして、本件建物の売却時、保証金額が200万円である旨の記載のある「貸主変更に関するおしらせ」と題する書面がBによって作成されていました。
 本判決は、以上の各事情を前提とした事案でもあります。今後の不動産取引におきましても、実務上、十分注意を要するものと思われます。
 なお、「保証金」に関しては、敷金、礼金あるいは権利金、建設協力金、またはそれらの複合的性格をもつものとされており、その実質に応じて、新所有者への承継の有無が個別に判断されることになります。


(一財)大阪府宅地建物取引士センターメールマガジン令和5年2月号執筆分