(1)ア |
本件賃貸借契約の定める原状回復義務の内容は、契約条項及び原状確認書の添付書類の文言に基づけば、スケルトンの状態にするというものであったこととなる。
他方で、本件賃貸借契約については、開始当初において上記文言に反して居抜きの状態で引渡しがされており、また事後的ではあるものの、同契約終了後の後行賃貸借契約においても、居抜きの状態で引渡しがされた。このような経過に照らせば、契約当事者間において、賃借人であるXがいかなる場合でもスケルトン工事の負担を負う旨の認識が共有されていたとは直ちに解し難く、少なくともXにつき、居抜きに応じる入居希望者が現れた場合には自身の負担を軽減できる旨の期待を有していたとしても不合理とは言えない。
併せて、本件賃貸借契約の条項を見ると、原状回復義務に関する取決めとして、借主が設置した設備等を撤去して建物を原状に回復する旨や破損、汚損箇所についても補修する旨のほか、原状回復工事については貸主の指定する業者に依頼し、その費用は借主が負担する旨などが定められている。これらの内容から、原状回復義務については実際に原状回復工事が実施されることが当然の前提とされていると解され、工事の実施の有無にかかわらず借主が金銭負担をすることを前提とするような内容はうかがわれない。
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イ |
Xが解約を申し入れた後の交渉経過を見ると、Xとしては、自身の原状回復義務の負担を軽減できるかどうかにつき関心を持ち、居抜きでの引越に応じる入店希望者を探すなどしており、Yもそれを認識していたが、結局は原状回復工事が実施されるとの前提で交渉が進行した。
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ウ |
Yが令和元年10月9日に原状回復工事代金の見積書を示し、その後同月16日には当事者間で鍵の返還及び退去時請求書の交付が行われるに至った。
上記請求書の文言上は、「原状回復費」などとの項目及び計算結果としての請求額を示すものであって、原状回復工事を実施するか否かにかかわらず金銭精算を要するような内容は何ら見当たらない。また、X代表者は、工事代金額が高額すぎるとの認識の下、Yの担当者に対して減額を求める旨を述べ、また各書面にあえて「受領しました」との手書きを加えており(内容に同意したのではないとの趣旨が理解できる。)、金銭精算につき異議なく承諾をしたような形跡は何ら見当たらない。
以上より、Xとしては、原状回復工事が実施されることを前提に、なお自身の負担を軽減できるか否かにつき関心を持っており、かつYもその旨を認識していたことが明らかと言うべきである。
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エ |
その後の同月20日頃、X代表者とY代表者との間で電話連絡が行われ、同月23日には本件請求書(最終の請求書)が作成された。
かかる経過を見ると、Xはなお自身の負担を軽減できないかを検討し、まず工事代金が適正なものであるか否かにつき問合せを行った上、最終的には支払額を50万円とする旨の交渉を行っている。そして、作成された本件請求書の文言を見ると、「調整値引」との表現により減額が行われているが、この表現自体が原状回復工事の有無にかかわらずXが金銭負担をする旨の内容を直接示すものとは解し難い。また、他の記載内容は前記の退去時請求書と同様であって、工事の有無にかかわらず金銭精算を要するような内容は何ら見当たらないし、他に原状回復工事が実際に実施されるか否かについて明示的なやり取りは見当たらない。
Xとしては、調整値引が行われた後においてもなお、原状回復工事が実施されることを前提として自身の負担につき関心を持っており、かつ、Yはその旨を認識していたと認められる。
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オ |
以上に照らせば、本件請求書の作成により本件合意をするに当たって、X代表者は、実際に原状回復工事が実施されるからこそ、その費用を負担する旨の動機を黙示に表示しており、その動機が意思表示の内容となっていたと言うべきである。
また、仮に原状回復工事が実施されない場合、X代表者が本件合意に当たる意思表示をしなかったこと及びそれが社会通念上相当であることは明らかと言うべきである。
よって、原告の動機の錯誤が成立する。
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(2) |
これに対し、Yは動機の黙示の表示及び動機が要素に当たることを否認し、さらに令和元年10月16日に退去時請求書を交付した際に、原状回復工事を免除する代わりに金銭精算をするとの合意をしたもので法律上の原因がある等を主張するが、前記認定を左右するに足りる事実、証拠は見当たらない。
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(3) |
以上から、本件合意は、Xの動機の錯誤により無効である(ただし、無効とされるべきであるのは、正確には同合意のうち原状回復費に当たる一部であり、このような一部無効とされること自体については当事者間にも特段争いがないものと解される。)。
よって、上記の原状回復費に当たる部分につき、Yの不当利得が成立する。
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