買主からの手付解除


弁護士 宮下 幾久子


1 はじめに

 買主が売主に手付を交付したときは、買主はその手付を放棄し、売主はその倍額を現実に提供して、契約の解除をすることができるとされています(民法557条1項本文)。
 売主からの手付解除については、改正前は「その倍額を償還して」とだけ定められていましたが、改正後は「現実に提供して」と明示されました。
 一方、買主からの手付解除については「手付を放棄し」と定められており、解除の意思表示とは別に、手付放棄の意思表示を要すると考えられています。解除の意思表示にはその原因を明示する必要はないとしても、手付放棄は解除権の前提となる事実だからです。
 今回紹介する裁判例は、手付放棄の意思表示が解除の意思表示に黙示的に含まれていたといえるかが問題となり、第一審と控訴審とで判断を異にした事例です。

2 事案の概要

(1)  住み替えを検討していたXは、平成30年11月10日、Y(不動産会社)との間で、令和元年8月竣工予定の新築マンションを下記約定で購入する旨の売買契約を締結しました。
@売買代金   5298万円
A代金の支払時期
 ア 手付金 530万円(売買契約締結時)
 イ 中間金 530万円(平成30年12月20日限り)
      1848万円(令和元年6月20日限り)
 ウ 最終金 2390万円(令和元年9月26日限り)
B引き渡し予定日  令和元年9月26日
(2)  Xは、Y会社に手付金530万円と中間金530万円を支払いましたが、融資金額の増額ができなかったため、自宅が売れないまま新しい家を購入することに不安を覚え、令和元年9月1日、Y会社に本件売買契約を解約したい旨電話で申し入れました。
 Y会社は手付解除しか応じられない旨Xに伝え、日程調整の上、9月17日にY会社において解約手続をすることになりました。

(3)  9月17日、Xの代理人弁護士がY会社を訪れ、既払いの手付金及び中間金全額の返金を求めました。
 これに対し、Y会社は4238万円の残代金の支払の催告をしたうえで本件売買契約を債務不履行解除し、11月6日、約定に基づく違約金(売買代金の20%、1059万6000円)と受領済みの1060万円(手付金と1回目の中間金合計)を対当額で相殺する旨の意思表示をしました。

(4)  Xは、Xが受けられる融資額についてY会社が虚偽の事実を述べたとして、本件売買契約の詐欺取消や不実告知(消費者契約法4条1項1号)を理由とする取消等を主張し、訴訟提起しました。
 訴訟手続が進行し証人尋問が終了した後、裁判所からの求釈明を契機として、Xから手付解除の主張(予備的請求)が追加されました。

3 第一審(令和4年4月7日東京地裁)の判断

 第一審では、Xの詐欺や不実告知の主張だけでなく、手付解除の主張も認められませんでした。
 Xは、予備的請求として、令和元年9月1日のY会社への電話連絡の際に手付解除する旨の意思表示をしたと主張していたのですが、同月17日にX代理人がY会社に対し既払金全額の返金を求め、手付解除と矛盾するような行動を取っていたことから、同月1日の電話連絡は解約の手続きを進めて欲しい旨の意向を示していたに留まり、黙示的に手付放棄の意思表示がなされていたとは認められないと判断されました。


4 控訴審(令和5年1月31日東京高裁)の判断

 控訴審では、令和元年9月1日にXがY会社に電話をした際、Y会社との間で手付解除の手続をする日程調整をしていたことから、Xにおいて手付放棄の黙示の意思表示があったと認められました。
 判決では、手付解除の意思表示をした後に合意解除の申入れをしたとしても、合意解除が認められなければ手付解除をするしかないので、手付解除の意思表示を撤回することなく合意解除の申入れをしても矛盾する行動とはいえないと判断されました。
 また、第一次的に消費者契約法による取消(不実告知)を主張しつつ、それが認められないときに備えて予備的に手付解除を主張することは許されると判示しました。

5 他に手付解除の意思表示が問題になった事例

 上記控訴審判決後に、別事例で、手付解除の意思表示があったかどうか争いとなった事案の判決(令和5年3月27日東京地裁)がありますので、ご参考までに紹介しておきます。
 同事案では、売主会社(被告・不動産業者)から月額140万円の賃貸借契約が成立していると告げられ賃貸物件として利用する目的で不動産を購入した買主(原告)が、当該賃貸借契約は虚偽だったと主張して、当該売買契約を解除し支払った手付金の返還を求める通知書を売主会社に送付したことをもって、手付解除の意思表示をしたといえるのかが争われました。
 判決では、「原告解除通知書の内容は、あくまで本件売買契約締結に当たり詐欺行為があったため本件売買契約を解除し、支払った手付金の返還を求めるというものであって、手付を放棄する意思が含まれているとはいえないから、手付解除の意思表示を含むものとは認められない」と判示されました。
 この事例では、逆に売主側からの債務不履行解除が認められ、買主側は多額の違約金の支払を命じられました。

6 まとめ

 手付放棄の意思表示が黙示的に認められるかどうかは、事案ごとに個別具体的な事情を考慮して判断されることになります。
 3項でご紹介した第一審判決(令和4年4月7日東京地裁)では、「相手方の保護の見地からすれば、少なくとも解除の意思表示が手付解除の趣旨でなされたことが相手方にも容易に認識できるような状況が存在していたことは必要であるというべき」と述べられており、参考になると思います。
 上記事案では、当事者間でいったん手付解除の手続をするための日程調整がなされており、その後合意解約の申入れをした行為が手付解除の意思表示と矛盾するかどうかの判断が、第一審と控訴審とで分かれました。

 5項でご紹介した事例(令和5年3月27日東京地裁)では、当事者間で手付解除の話題が出たことがなく、買主側が手付金の返還を求めているだけですので、手付放棄の意思表示を黙示的に認めることは難しかったものと思われます。
 買主側からの手付解除が認められないと、売主側から代金不払いによる債務不履行解除が認められることになり、違約金を請求される事態となります。買主側が第一次的には手付金全額の返還を求める場合でも、予備的に手付解除を主張しておいた方が安全な場合があるといえるでしょう。

(一財)大阪府宅地建物取引士センターメールマガジン令和6年12月号執筆分